上京

19歳で北海道網走市から上京。

その当時は映画俳優になりたかった

幼い頃から、レンタルビデオで「ビーバップハイスクール」など(時代を感じるw)男の子が影響されるような作品をよく観ていた。

バスケ、ボートと、学生時代は体育会系だった。部活が青春だったと言ってもおかしくないほどの日々。

高校時代、ボート部で全国大会にも何度も出場した。しかし、引退を待たずに退部した。上京資金のためアルバイトをしたかったからだ。

そして高校卒業と同時に上京。映画俳優になる=東京だった。

東京生活は、高円寺のオンボロアパートから始まった。右も左もわからない都会の暮らし。電車の乗り方すらよくわからない。(今は最高ですね。スマホで調べればOKなんて!)そんな中、アルバイトしながらオーディションを受けていた。

音楽へと変わる

名も知られていない俳優養成所でレッスンを受けながら、時々エキストラの仕事(勉強みたいな感じ)に呼ばれるくらいで、いわゆる俳優として階段をのぼってる感じが全くしなかった。

まだ20代前半。しかし私には過酷な運命が待っていた。

学生時代からよく髪の色を変えていた。そういう年頃であり、流行でもあった。上京後もそれは変わらず、美容室でガッツリカラーリングしてもらってた。

ある時、薬剤が肌に合わなかったのか、頭皮が水膨れのように荒れてしまった。その時に感じた嫌な予感がのちに的中することに…。

まともな太さの髪が生えてこなくなった。

今でこそ、ハゲキャラやスキンヘッドなんて珍しくない。しかし私が意を決して丸坊主にした頃はまだ、坊主やスキンヘッドはネガティブイメージだった。ましてや薄毛ともなれば。

当然俳優は、役として人様に見られる職業。私が思い描いていた織田裕二さんのような俳優像とはかけ離れた姿。Vシネマのチンピラやヤクザの下っ端役しか来ない。そんな自分自身を信じる事は出来なかった。

「俳優は無理だな…」

情熱を失い、アルバイトだけの虚しい毎日。ある時アルバイト先の先輩が「これすごく良いから聴いてみなよ」と勧めてくれたのが長渕剛さんの「昭和」というアルバムだった。当時の私は、俳優の長渕さんの方が馴染みがあって、歌はとんぼとしゃぼん玉くらいしか知らなかった。あと乾杯か。

アルバムの中に「シェリー」という歌がある。これは長渕さんの映画の挿入歌としても使われていて、うるっと来るようなシーンで流れる。

実は当時、とてつもなく大きな失恋をしたばかりでもあった。だから余計に精神的に落ちていて。その時聴いた「シェリー」。

泣きました。失恋に。自分の現状に。

影響されたんでしょうね。長渕さんのコピーを始めました。アコギは小学生の頃に弾いて遊んでいたので簡単なコードなら弾けました。そのうちに芽生えてきたのが自分の歌を作りたい。

模倣からはじめて、作詞・作曲を始めた。そりゃあ初めは日記かよ!ってツッコミたくなるような恥ずかしいクオリティ(笑)未練たらしい失恋ソングとか(笑)

でもそうやって夢中で自分の歌を作って、歌って、MTR(録音機材のこと)で録音してると「俺、夢中になれることがあるじゃん」って!心が復活した感じがしました。そこから「シンガーソングライターになる」という新しい夢を持つことに。

プロとはなんなのか

オリジナル曲で、ライブハウス出演を続けていた。自分の歌には自信を持っていつもステージで歌っていた。私が快感だったのは、その日たまたま私のステージを観た見知らぬ方が「ほんと素晴らしかった!」と声をかけてくれることだ。

私も社交辞令くらいはわかる。しかし、ライブハウスで見知らぬミュージシャンにわざわざ気を使う意味なんてない。本当に素直にそうやって声をかけてくれた。そんなことが何度もあった。

しかしアマチュアで活動していく中での大きな壁がある。「集客」だ。

自分自身でお客さんを集めなきゃいけない。私はこの力が絶望的に足りなかった。そもそも一人行動が好きで、友達も少ない。職場の人にライブに来てとは滅多に言わなかった。そう、誘う相手がいない。

ライブハウス出演にはノルマがある。ソロでの出演なら¥10,000〜ってところでしょうか。チケットを1,000×10枚とか。チケット捌けないなら自腹ねってことです。集客出来ないミュージシャンは、毎回お金を払ってライブする。月に何本ものライブをしたい気持ちはあったが、毎回赤字の集客力。生活も考えるとそんな余裕はなかった。

俳優もミュージシャンも、いわゆる「売れる」のはほんの一握りだ。いや、ひとつまみかもしれない。歌の質が良かろうが、どんなに演奏がうまかろうが、もっと言えば、どんなに素晴らしいステージが出来ても、

「集客出来なきゃ、ただの自慰行為だよ」って言われたこともある。

悔しかった。泣きながらライブハウスから帰ったこともある。でも自分じゃお客さんを呼ぶ事は出来なかった。その状態が何年も続き、あんなに楽しかったライブが、集客のことを考えると嫌になっていった。

正社員

ライブ活動しながらアルバイトとして今の会社で働いていた。会社も波がある。人の入れ替わりもある。

ベテランが退社するのが続いた時期があった。その時に、社長から直接「正社員で働かないか?」とお話をいただいた。これまで働いてきた中で何度か正社員でどう?という話はいただきましたが頑なに断っていた。

ちなみにですが、私、これまで40ヵ所くらいアルバイトや派遣をやってきた。履歴書とか、面接とか、信用なんてあるはずない(笑)

「お前は、俺(社長)が思う理想の社員像なんだよ」

これ以上社員が減らないためのリップサービスだったかもしれないが、悪い気はしなかった。この会社での仕事も嫌いじゃない。どうするか真剣に考えた。

音楽にのめり込んで10年か。

30代半ばも過ぎて。

夢と言えるほどの情熱があるか?

そんな情熱でプロのミュージシャンになれると思うか?

本当はどうなんだ?意地で夢を追ってないか?

大きく息を吐き、私は正社員になることを決意した。

突然現れたメンター 

正直にいうと、正社員になって仕事に追われて、しかも安い給料。独り身で不自由なく暮らせてる有り難さは感じても、充実感とは無縁の日々だった。

社員になって数年、歳のせいにするが(笑)太ってきたので自室のスピンバイクを漕ぎながらiPadでYouTubeを観ていた。すると広告で、私と同じ頭(スキンヘッド)の何やら喋ってる人の広告が流れた。

スキップしようとしたが、なぜか、最後まで聴き入ってしまった。こんな事は初めてだ。一体何者だ?

ほどなく、講演家の鴨頭さんだと知る。改めて動画を拝見した。「本当の働き方改革とは?」みたいな講演だった。

「そう!そうなんだよ!俺も感じてるのはそういう事なんだよ!」

めちゃくちゃ共感して、涙が出そうな自分がいた。

言うまでもなく私は彼のファンになった。そして、心のスイッチを直し、再起動してくれたまさにメンター だ。

自分で言うが、私は変わった。(笑)

会社において、周りとは全く違う主体性で仕事を楽しみ始めた。圧倒的だ。

プライベートにおいては、「学ぶ」ということの楽しさに気がついた。

ワークアウトを続け、お腹の肉をどうにか減らそうとしてる(笑)

録音機材や色んな楽器は売ってしまったけど、アコースティックギターだけはずっとそばに置いていた。そして弾く頻度がまた増えてきて、眠っていたオリジナル曲を動画で投稿するなど、自分なりの音楽との付き合いを始めた。

そして次の夢

その時の夢と共に、その時代を過ごしてきた。後悔は全くない。あるとすればもっと髪を大事にすればよかったってことくらいか。(笑)

俳優にしても音楽にしても、いつだって一生懸命大真面目に夢を追いかけてきた。それでも必ず夢が叶うわけじゃない。これまで自分が打ち込んだ時間がまるで「無かったこと」になってしまうのは、なんてもったいないんだろう!

時代はどんどん変化していき、新たな職業と呼ばれるお仕事も生まれ続けている。昔ながらの考えで凝り固まっていたら、変化に対応できなくなってしまう。「自分自身を発信する形」として様々な選択肢が増えている今、活動方法がたくさんある。

学びも熱意も全てが自分の糧になり、あなたの満足に繋がる!まさに「職業=自分」という新しい仕事観を実現したい。